いつも熱い韓国戦に思う 2月23日(金)
2007年 02月 23日
先の剣道世界大会でも何が何でも日本に勝ちたいという雰囲気だ。それに対して日本勢は、あくまでも日本の剣道を世界に示しながらも強さを要求される。そのプレッシャーは相当のものだろう。
日本の大会ではあり得ない応援団の歓声やブーイングは異様だ。一進一退の静かな駆け引きの中で戦う剣道の試合が、異種格闘技のノリとなってしまう。静かに見守る日本側応援団と、国旗を振り大歓声で応援する韓国側応援団とは対照的だ。
その一方で、世界大会でありそれぞれの国が、自国のプライドをかけて闘うのだから、そこに必死の応援があってもいいのではないかという感情も理解できる。逆に自国の選手が一生懸命闘っているのに、ただただ静かに観戦するだけの日本の応援態度がほかの国には奇異に映るかもしれない。
私も観戦していて日本を破った米国や主催国の台湾などの応援振りは、むしろ普通にみえた。しかし、ブーイングはしない。そこが他国と韓国ではちょっと違う。そこまでして勝ちたいのかといわれれば、「そこまでして勝ちたいのが日本戦」ということだろう。
韓国のそうした感情の根底にあるのは何か。ここで両国の間に横たわる負の近現代史について語るつもりはない。しかし、先日の新聞で見かけた記事などでも同様のことが感じられる。
一見関係なさそうで関係があるのだ。新聞記事について触れてみたい。
終戦直後の朝鮮半島から引き上げた日本人少女の苦難を描いた自伝的小説が今、米国で話題になっている。「竹林ははるか遠く」と題されるこの小説を書いたのは、マサチューセッツ州在住の日系米人、ヨウコ・カワシマ・ワトキンスさん。
1945年夏、母親と姉の3人で朝鮮半島北部の羅南から釜山までの過酷な逃避行を描いている。当時11歳だったヨウコさんの実体験をもとに、戦争の悲惨さを訴える内容となっているのだ。
話題と言うか、論議となっているのはこの小説が「教師用のガイドブックで推薦図書に指定されるほど評価が高く、全米の多くの中学校が11、12歳対象の読書教材として使うようになった」(読売新聞12月17日付け朝刊)ことに対し、韓国系米国人や韓国系米国人の父母から「歴史的背景の説明がない」「模写が生々しすぎる」として教材使用の禁止を求める運動を開始したからだ。(読売新聞記事から)
そうした反発を受けた作者の記者会見場では「なぜ従軍慰安婦の問題を取り上げないのか」といった質問が韓国人記者から相次いだそうだが、11歳少女とその家族の過酷な運命と、体験した戦争の悲惨さを題材にしたことだけが論点で、現在の政府間の対応や対日感情の道具にされてはたまらない。
韓国人社会での「対日感情」は根が深い。日本が朝鮮半島に対して行ってきた植民地支配の歴史は、戦後60年以上過ぎた今も怨念に近いものを残しているのだろうか。
しかし、今に戻って過日の世界大会に戻ろう。
試合後、日本選手団にサインを求める韓国人プレスや日本選手団に記念写真を求める韓国の女性選手団、親しく語らう日韓の審判団、こうした触れ合いも多々見られたのも事実だ。私も韓国プレスのカメラマンと親しくさせてもらった。
すべてが「厳しい対日感情」という構図では割り切れないものがあるが、国民感情という点で微妙なずれというか、温度差があるのも事実だ。個人的には親しくなれても国家を背負うとなればまた話は別ということか、このダブルスタンダードの考え方は日本人は慣れていない。
民間レベルではますます韓国や中国、台湾とのつながりが深まり、音楽や映画、ドラマなどさまざまな文化交流が進んでいる。今一度市民レベルでの歴史観の見直しも必要だと思う。是々非々の考えなり主張をすることも大事だ。それは剣道の世界でも同じだ。
世界の常識の中では、日本の沈黙の美徳は理解されにくいのだ。