剣道再開組の中年剣士が生活習慣病と戦いながら剣道修行


by jdmn
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鶴さんのメール紹介しちゃいました 5月20日

週に1度程度だが、子供たちと稽古をすることがある。5年生、6年生ともなると上達の差が目に見えてはっきるあらわれる子供もいる。こうした稽古が私にとって大変勉強になる。高段者の先生方に比べれば、ささやかな経験であるが、いかに基本どうりの打ち方や技を出せるか自分の稽古にもなっているからだ。

子供のころは、いかに早く打てて人よりもうまくなれるかと思ったし、どうすれば試合で勝てるか、そればかりを考え稽古をしていたように思う。

 そうした思いが稽古や試合にも如実に表れてくる。それはそれでいいと思う。そのうち、実力が拮抗した相手とは自然と剣先を通じてのさぐりあい、心の読みあいが、一瞬の技となってあるいは応じて勝負が決まることを実感として持つようになる。私自身はそのような心境になるまではまだ時間がかかるが。

 高段者の先生方のように、剣道を長く続けていると、求めるものにも幅が出てくる。剣道をまさしく剣の道として武道を見極めんがための精神や心がけといった心境に近づかんがための努力を惜しまない。

 そうした思いや心がけは普段の稽古にも当然表れるものだ。たまにそうした先生に稽古をお願いしたときなど、私などはまったくの初心者同然に処し方に戸惑ってしまったこともある。

 ずいぶん前だが、ある道場開きのお祝いの稽古会で高名な剣道家の先生に、普段の仲間内の稽古同然に初打ちに小手を打ちにいったり、引き面を打ったりしたことがあった。そのときの心境は、少しでもいい技を出して、いいところを見せたいという子供のようなところがあったのだろう。今思えば恥ずかしい限りである。最初から最後まで自分のペースでがむしゃらに打ちにいったのだから。
 
 そんなことを考えていたら、同じ道場の稽古仲間であり、私同様中年剣士の鶴町さんからメールをいただいた。
 少々長くなりますが、以下引用します。 

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こんばんは。
先日、岩手大学剣道部の浅見先生の「独り言」を読んでいましたら、いい話が載っていました。何度も読み返しました。その部分を、下記に抜粋します。(岩手大学剣道部HPより、引用)浅見先生が、ふがいない学生に、憤慨して、また、自分勝ってな剣道で、掛かってくる相手に対して嘆いていた時、京都演武大会の朝稽古の帰りに、たまたま、奈良の賀来先生にお会いして、愚痴をこぼしたところ、賀来先生から、意外な話が返ってきて、勉強になったと書き込んでおられました。

                  記

『5/4はこの日も前日同様快晴。日中には最高気温が30度を超えたのではないかと思うほど。春は終わって、夏そのもの。

 朝稽古には徒歩で行った。この日も元立ちを1時間ちょうど務めた。5/4には7段の立合があり、朝稽古参加者は前日よりも多い。初めの頃は、隣のN教士、M教士と肩が触れ合うほどのスペースでやらざるを得ないほど。

 しかしねぇ・・・やっぱり、色々な人がいるもんだ。中には浅見の胴を、もぐり込んで打った瞬間に「斬ったりー」と宣言したヒト。メンに来るけど届かなかったとき、浅見の胸をドーンと突き押ししてから「メンー、メン」と2度打ち、3度打ちのヒト。まぁ、喧嘩腰で来る人はいなかったけど、終わって最後の礼をしたと思ったら、クルッとあっち向いてホイのヒトとか。
そんなヒトに限って、終わるときに首を傾げたりして、自分のことしかアタマにない様子。やっている内に、辟易としてきた。

 かかる方ばかりではない。近くの元立ちのA教士の打ちも強烈。かかってくる相手を叩きのめしているかの如く。どういうわけか、浅見は最近の稽古では強く叩くことが少なくなっている(相手に合わせて、竹刀を部位にタッチするかの如く・・・そうは思わないって?)。強気で来る相手とは「やってらんない」と思うこともしばしば。

 稽古が終わった後、ため息が出てきたね。サブ道場ではまだ続けてやっていたようだが、とても稽古を続ける気にならず、終了。

 稽古が終わり、武道センターを出るとき、偶然に奈良の賀来範士と一緒になった。賀来範士からは、「オー、元気か。どうしているか気になっていた。」と言っていただく。
 宿舎に帰る道すがら途中までご一緒に歩きながらお話を聞いた。

 浅見が最近感じていることとして、次のようなことを話した。「最近、地稽古が自分の鍛練にならない。自分にとっては切り返しや打ち込み稽古の方が鍛練になる。」

 賀来範士はそれに対して次の教えを話してくれた。
 「それはまだ本物ではない。
 持田盛二先生(故・範士10段)は『2段の相手には2段半の力で、7段の相手には7段半の力で遣われた。どんな相手でも自分の鍛練になる』と言われた。

 斉藤正利先生(故・範士9段)は、どんな相手でも汗ビッショリになって稽古をされていた。2段3段の相手でも、オッとっと、オッとっとと汗ビッショリになっておられた。ある年、全日本東西対抗に出られることが決まっていたが、それでも師範をしていた京都大学で学生相手に毎日稽古をされており、心配した学生が『学生とばかりの稽古でよろしいのか。もっと強い方と稽古をされなくて大丈夫か?』と尋ねた。

 そうしたら『学生相手でも自分の稽古になる。』と明言された。 このようにどんな相手でも、相手に合わせて稽古を一生懸命すること、それが自分を鍛えていることになる。そしてそうしていれば、相手の心が読めるようになる。心が映るんだな。明鏡の如しだ。ここまで行かなければいけない。私が斉藤先生に稽古をお願いしたときのこと、その日はある考えを持って稽古をした。

終わったときに斉藤先生は、私の考えを一言で言い当てられた。全部読まれている。
こういう先生にかかったら、何も通用しない。

 もう一つ、浅見が話したことは、今の自分の心情について(この朝の稽古でうんざりしていたこともあるけど)。
 「他の人の稽古が、まるで争いごとや闘いの様相になっている。浅見は今、そんな中に一緒に入って打ち合う、叩き合うような気になれない。浅見の稽古では、ただ力まずに遠間に立ち、打つ機会が自然に訪れるのを待つ稽古になっている。」

 賀来先生曰く、「確かに、争うなんて下の下だ。浅見は良いところまで来ているが、まだもう一歩先がある。さっきの(上記の)話のように、この道を信じて、突き進むこと(伊藤一刀斎の言葉「戦陣訓」を引き合いに出して語っていただいた)。」

 賀来範士とのお話が楽しいのは、昔の大先生の話や様子がたくさん出てきて、ワクワクするのだが、まさか伊藤一刀斎の言葉がスラスラと出てくるとは思わなかった。

 途中でお別れして宿舎まで歩いて帰る。帰る道すがら、賀来先生のお話が頭の中を駆けめぐっている。街中を剣道着・袴姿で歩いていても、他の人の目が全く気にならない。

 宿舎に到着、シャワー、朝食を済ませ、再びベッドの中で睡眠補給。
 
 寿司弁当で昼食を済ませ、防具を再び用意して武徳殿に向かうことにした。

 14:00頃から15:30まで、知り合いの7段立合を見学。一緒に並んで見ていた作道正夫先生の隣に座って、賀来先生から聞いた話を紹介した。
 作道先生曰く、「良い話を聞いた。我々は学生と稽古していても、心まで読んでいるかというと、そこまではしていない。そこまで考えるべきだな」と。』

心まで読もうとしていないと、いつまでたっても、心を読めないですよね。
”相手に合わせて一生懸命すること”それが、心を読むことになるんですか。

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 鶴町さんメールありがとう。私たちの場合、こうした先生の心境はともかくまず稽古です。まっすぐないい面を一本でも多く打てるよう稽古に励みましょう。




 
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by jdmn | 2005-05-20 15:21 | 稽古日誌